キャラ研発信

キャラクターに癒しを求める現代人(1999.10発表)

時代レポートVol.1より香山リカ氏に聞く「癒しとキャラクター」
インターネット特番・全文掲載  
 [plofiel]
1960年7月1日北海道札幌市生まれ。東京医科大学卒。 精神科医。 神戸芸術工科大学視覚情報デザイン学部助教授。 学生時代より雑誌等に寄稿。その後も臨床経験を生かして、新聞、雑誌で社会批評、 文化批評、書評なども手がけられており、現代人の“心の病”について洞察を続けられている。 専門は精神病理学だが、テレビゲームなどのサブカルチャーにも関心を持たれている。 主な著書に、「<じぶん>を愛するということ-私探しと自己愛-」(講談社現代新書)、 「テレビゲームと癒し」(岩波書店)などがある。
 

(調査結果の概要をお聞きになって…)

 すごく今の社会状況がそのままよく現れているようで、全然違和感なく聞かせていただきました。キャラクターを肯定的に見ている人のパーセンテージが高いのだな、ということを素朴に感じます。キャラクターを積極的に持とうとしなくても、たまたまある商品を買ったら付いてきた、という人もいるでしょうし、意識の中ではキャラクターというのは大人としては恥ずかしい、という乖離があるのかな、とも思っていたのですが、積極的に持とうという人が多いのだな、と思いました。 多分、80年代以降、キャラクターものの数も増えてきて、キャラクターを全く抜きにして生活するというのはほとんどないと思うのですが、ここに来て、それを子どもっぽくても別にいいじゃない、という感じの、「退行」という現象を肯定する動きが出てきていると思います。それはあらゆるところで見られる傾向のようです。
この間たまたまある編集者と話していたのですが、いまSMAPの「らいおんハート」という曲がはやっていて、「らいおん」というのはひらがなになっています。その前には「夜空ノムコウ」という曲があったのですが、そこで漢字ではなくてカタカナが出てきて、そのときに彼女はかなり退行しているな、というのを感じたということです。そこで今度はひらがなが出てきたので、さらに退行しているのか、と驚いたと言います。そういう曲が、いま非常に売れているのですが、聞いている人に対してはそれこそ癒しになっていたり、柔らかい感じとか、なんとなく受け入れてもらっている感じとか、というのを与えているのではないでしょうか。 ただし、それを買う人は大人でして、多分昔だったら子どもの歌なの?と思われるところもあったのではないか、と思います。「退行」ということにどんどん抵抗をもたなくなっているように感じています。 大人においては、言葉によるコミュニケーションの世界があまりにも厳しくて、そこには行きたくない、という「逃避」のようなものがあったり、キャラクター商品が作る世界に部分的に退行することによって、少し気分が安らげる、ということをみんな取り入れている、それが社会的にも容認されてきている、という気がします。

80年代というのは「少女文化」が一気に花開き、「少女が一番よい」とか、小泉今日子が受けたりであるとか、「かわいいが一番偉い」とか、そういう方向への変化があったと思います。あのときは、まだ少女としての元気がいいこととか、将来どうなるかわからない未曾有のエネルギーがあるといった、「エネルギーの予感としての少女」、というような面があったのではないでしょうか。 その後、子どもっぽさというものが肯定されている、ということの裏には、これからどうなる、とか、さらに元気になる、などというよりは、子どもに帰ることで大人の厳しいところからちょっと退却する、あるいは、そこで「まったり」して、くつろいで、またエネルギーをため込んで次に備える、という方向への変化があるのだと思います。
あるキャラクターマニアの20代の女性がいらっしゃいまして、その女性は、いかにも笑顔!という感じの表情のはっきりしたキャラクターが好きで、そのコレクターだったのですが、ある日突然、その押し付けがましい笑顔がうるさくてしょうがない、というふうに見えてきて、キティちゃんのマニアになってしまいました。彼女が言うには、そのキャラクターは疲れる、ということで、キティちゃんの全く表情のない、何も語りかけてもくれないあの表情に自分の勝手な気持ちを投影して、例えば自分が悲しいときにはキティも泣いているとか、うれしいときはキティもよろこんでいるとか、勝手に読み取ったりして、それで安らぐ方が望ましい、ということのようです。そういう意味では、「元気出してよ」とか、笑って「さあ元気にやろうよ」というのはもううんざりで、むしろ一緒にダラーっとしてくれるとか、言葉にしてもはっきりした理屈の通った励ましではなく、「フニャー」とか「ホニャー」とか、そういう意味のあるようで無いようなセリフなどがいいようです。
多分そのあたりは、表情のないハムスターなどの小動物がはやっていることとも関係しているのではないでしょうか。ペットセラピーなどがありますけれども、もう犬や猫でさえ、あの反応がうっとうしい、という方もいらっしゃいます。言葉や表情などでコミュニケーションすること自体がストレスになってしまう、ということです。見ているだけでかわいい、モルモットのような無表情なものの方がなごめるとか、もっと退行してしまいますと、植物のサボテンの方がいいとか、動物でも爬虫類とか、そういうものでないととても耐え切れないというところまで来ています。反応のあるものは「なぐさめられるかもしれないけど、傷つけるかもしれない、とても扱い切れない」という意識があり、コミュニケーションに対するエネルギーが下がっているようなところがあるように思います。

また、特に女性を中心にして、とりあえず「私を中心とした物語」をまず聞いてほしい、という方が増えているようです。とにかく自分をなぐさめてもらいたい、とか、自分はかわいそうな存在で、自分にはものすごくめぐまれない、不幸な物語があって、それを理屈はともかく、理解してもらいたい、という傾向があります。でも、それは話し合いや意味のある会話では癒されず、一方的ななぐさ めとか、包み込みとか、そういうものでしか癒されない、というものです。そういう意味では、無表情なキャラクターであれば「今日私ひどい目にあったのよ」と一方的に言っても、別にそれの是非とか、それはこうするべきだよ、などということも言われないので、楽なのだと思います。 インターネットなどで日記を公開する人の心理も同じかもしれません。誰も見てないのは悲しいけど、自分に関係のない人がどこかで見ているというような、メールアドレスを公開していなくて、言い放し、という人がいて、どこで誰がどう考えて読んでいるのかもわからないけど、とにかく発信して、カウンターがあるのでどこかで誰かが読んでいると思えれば、すごく気持ちが安らぐ、という心理があるようです。それなら自分でノートに書いたら?などとも思うのですが、それはダメらしいのです。ある人に言っている、という「相手」がいないとやっぱりダメで、そういうときにキャラクターとか、サボテンとか、ヘビとか、というのがその相手になるようです。レスポンスしないものとか、自分の物語を一方的に聞いてくれる存在がいいということのようです。

「退行」と少し関係した話で言えば、幼児が、それまではお母さんと一緒の幻想の世界にいて、そこから幼稚園のお友達や先生といった外の世界に出て行くときに、その橋渡しの世界と言いますか、中間の世界が必要、という説が精神分析学の分野にあります。いきなりお母さんとべったりした世界から外の世界に行くのではなく、その間にある世界のことを「中間領域」と言ったり、幻想の世界から社会へ移行するので「移行領域」と言ったりしますが、そこにいる子どもには「移行対象」という存在が必要になってきます。移行対象というのは、まさにぬいぐるみに代表されるような、大人にとってはあまり意味の無いようなものです。毛布の切れ端、ボロボロな洋服などもそうです。2〜3歳の子どもが、何かひとつの人形とか、ガラクタとか、そういうものに執着して絶対離さない、というのがあると思うのですが、例えばよく挙げられるものでは、スヌーピーのマンガに出てくるライナスが持っている毛布があります。そういう移行対象がどんな役割を果たしているかと言いいますと、これから社会に出て行こうとしている子どもに、なぐさめと励ましを与えて、後押しをして、社会に出ていけるようにするといったようなことです。そこで、また傷ついた子どもがいたときは、再び移行対象の世界に戻ってきて、そこで受け入れてくれたり、励ましてくれたりする存在だということです。 この移行対象というのは、最初の考えでは、幼児のときにだけ必要で、大人には必要ないと言われていました。ところが案外そうでもなく、やはり必要に応じて大人でも移行対象の力を借りなければならないこともあれば、移行領域のようなところに戻って、人から見れば意味のないような、まさにキャラクター商品のようなものですが、そういうものと自分との間にある会話などにより、自分だけの世界を作って、そこで癒しを得て、また社会に出ていく、ということもあるのではないか、ということも言われています。
そのあたりについて、いままではたとえそうであっても、大人がキャラクター商品をもつのは気持ち悪いとか、かっこ悪いとか、という意識があったのかもしれませんが、いまはそういう気持ちが緩くなったのか、それともそうも言っていられないほどみんなが疲れたり病んだりしているのか、移行対象的なものを必要とする動きはすごく増えているように思います。移行対象にもボロキレのようなものから、ぬいぐるみのような、誰から見てもかわいいものまで、いろいろなレベルがあると思うのですが、大事なのは、自分を傷つけないような、大きくないもの、つまり小さいものです。大きいものは圧迫感や威圧感があるわけですから、やはり小さくて、お母さんと一緒だったときの幻想を思い出させてくれるような、肌触りのよいものがよいと思います。とがったものやゴツゴツしたものよりは、フクフクのぬいぐるみなど。はっきりした具体的なものよりは、ファンタジーと言いますか、非現実的な動物とか、妖精とか、そのようなものなどが好ましいと思います。

-自己主張しないものがいいのでしょうか?

それもいろいろですね。例えばゲゲゲの鬼太郎の目玉オヤジのように、困ったときには何か言ってくれるとか、そういうものとして思っている人もいるみたいですね。困ったときはお人形に聞けば、すごくいいこと言ってくれるとか、助けてくれるとか、なにか不思議な力をもっているようなものとしてとらえているところもあるみたいですね。完全に妄想のような、作り出したようなものでもなく、完全に意味のあるものでもない、というようなところなのですね。

-それはみんながエネルギーがなくなってきている、といったあたりに原因があるのでしょうか?

それは、元々誰もが実はそういう世界をもっていたのですが、これまでのように現実的なお金とかモノとかを追求していた時代には、そんな意味の無い世界のことなどバカバカしく、肯定したり認めたりしづらい雰囲気がありました。ところが、いま社会が成熟してきて、とにかく「大人にならなきゃ」というのも薄れてきて、むしろモノではなくちょっと不思議な、合理的ではない領域ですね〜例えばいま陰陽師などがはやっていますけれども、あれなども昔だったら「バカバカしい」で終わってしまったと思うのですが〜ちょっと異界みたいなものへの興味も出てきていますよね。そんなにオカルト好きでなくても、どこかそういう合理性を超えた不思議な領域のものに惹かれる、というのがあるようですね。 それはみんなが病んでいるからかもしれませんし、現実的に高度成長も終わって、もうモノなどを追求するわけにはいかなくなって…というのもあるのかもしれません。ただ、ここ1〜2年の動きかなと思うのですが、いわゆるオウムなどがはやった時代のオカルトとはまた違うような、「第3の領域」のようなものがあってもいいのではないか、という気分があるような気がします。

-そういう意味では、小学生が置かれている状況〜調査でも4割ぐらいがストレスを感じている、友達よりもキャラクターのほうが安心できる、と回答している〜を考えてみると、病んだり疲れたりしていると言えるのでしょうか?

一度外の世界に出てから、そこで病んだり疲れたりして、もう一度こういう世界(移行対象としてのキャラクター)に戻っているのか、全般に小学生の心の発達が少しずつ遅れているのか、はよくわかりませんが、まだ、母親の世界と移行領域の世界の間にとどまったままなのかもしれないと思います。ただ、これは、母親の未熟にも原因があるのかもしれません。いま、母子密着が問題になっていますが、母親自身も子どもにキャラクター的な役割を求めて、子どもが手離せない、という状況なども見られます。なかなか子どもを第三者のいる社会に出さない、と言いますか、いつまでも子どもと一体化して、そこに父親とか他人の入り込む余地がない、という状況です。父親の力が弱まったことにも原因があるはずですが、父親がそういうところに割って入る、という本来あるはずのことを、母親はむしろ望まなくなってきており、子どもに、「お父さんってとにかくわけがわからない」 とか「他人とは恐い」、などと言って、なかなかその状況を打ち破ることができないようです。

-友達関係で傷ついてキャラクターに戻る、というよりは、友達関係そのものが未熟でそこに入っていけない、ということなんでしょうね。

そうですね。お母さんがいて、自分がいて、人形がいる、ということで満足しているような感じですね。

-それは、以前は就学前の子どもに見られたことだったのが、いまは小学校高学年ぐらいまで見られるようになった、ということなのでしょうか?

そうですね、子どもが未熟というのもあるのですが、とにかくいまの時代の特徴として、子どもが未熟という以上に、お母さん自体が未熟で、子どももキャラクターも同じレベルでかわいい、ということになっている状況があります。

-子どもが移行対象ということですね。

そういう気がしますね。このことは現在深刻な問題になっておりまして、いい意味では友達みたいに仲のいい親子なのですが、お母さんが子どもに何でも話してしまうわけです、まるでサボテンにでも話すように。まだ小学生くらいの子どもに、例えば、極端なのですが 「お母さん、子どもができたけど中絶しようと思っている」とか「お母さん、お父さんじゃない人を好きになってしまったんだけど」というような、相談とも独り言ともつかないようなことを何度も言ってしまう例もあります。自分の中にとどめておけない、というところがあるようなのですが、それはもう子どもに話しているというよりは、子どもがキャラクターのようなものになっていて、それに話しかけている、という状態になっています。

-そこまで極端でなくても、いま言われている「いい子論」みたいな現象っていうのはありますか。

そうですね。子どもの中で「自分は親から承認されていない」という、何か不思議な感覚なのですが、そういう意識も強まっています。見た目はすごくかわいがられており、むしろ過保護ですから、愛情は濃いはずなのですが、実は子どもは全く理由無しにこの家にいるということが何か不安と言いますか、自分はいらない子どもだったのではないか、とか、親にとって無意味な子どもなのではないか、とか、なぜか自分に自信がもてない状況があったりするようです。ただのほほんといることができないようでして、そうなるとどうするかと言いますと、結局は親が悪い顔をしないような自分でいることが、一番親が喜んでくれることですから、まあこれでいいのか、という気持ちになって、とりあえずそれで安心できる、という振る舞いをするようです。そういう"いい子"が増えています。
これもこの前小学校のベテランの先生と話したことなのですが、昔は低学年の子どもにとって学校は恐いところで、えらくかしこまっていたのですが、それに対して、学校は恐くない所だということや、どうやって学校で振る舞えばいいのかということを教えることが低学年の担任の先生の主な仕事だったらしいのです。ところが最近はみんなそうではなくて、学校ではやりたい放題で、学級崩壊のような状態になっており、お母さんに父兄会などの場でそういうことを言うと、みんな「信じられない」って言うらしいのです。というのも、「家ではいい子で、おりこうさんで、そういうことは絶対にない」ということで全然話し合いにならないらしいのですね。それで、その先生が言うには、いまはいかに親に好かれるか、認めてもらうか、喜んでもらうか、というところでものすごく気を遣っていて、その分のストレスが学校で発散されているのではないかと思う、と言われるわけです。そう思ったら学校で騒いでもしょうがないかな、と思うとのことです。 この背景には、親のほうもゆとりがなくて、「いい子」以外の子どもをどうやって作ったらいいのかわからないから、とりあえずいい子に仕立てあげておけばいいのでは、というのもあるでしょうし、子どものほうも親にいい子と思われなかったら悲しいから、親に好かれるように好かれるように、あまり自分の意志と関係なく振る舞ってしまうというような…。表面的にはとてもいい子といいお母さんでハッピーに見えるのかもしれませんが、非常に何か奇妙な感じですね。

-そういう状況があるとすれば、今回の調査でも「自分のことをわかってほしい」という願望が小学生に特徴的に出ていたのですが、何をわかってほしいのかな、というのがこれから探っていくべきテーマになるかとも思うのですが。

そう思いますね。ただ、私はそんなに自我も芽生えてなくて、自分をわかってほしいというところまではまだ行っていないのではないか、という気もしますが…。

-男の子と女の子、というのはやっぱり違いがあるのでしょうか?今回の調査からは、男の子のほうにはいわゆるヒーロー願望とか変身願望があり、女の子には癒しとか庇護とか逃避とか、大人に近い感覚でキャラクターをとらえる傾向があるのかな、というのが見えてくるのですが。

男の子が好きなのはやっぱりファンタジーで「何かになってしまう」という、昔とあまり変わっていないところはありますね。女の子は「わたし物語」といった感じで、自分をわかってほしいとか、どうすればいい子になれるか、とか、そういう方向なのでしょうね。 ある社会学者の方がいらっしゃいまして、小学校6年生ぐらいの男の子の調査をして、好きなものやなりたいものの絵を描いてもらったら、小学校6年生なのに、ほとんどの人が「ピカチュウ」とか「アンパンマン」とかを描いてビックリした、ということがあったそうです。そういうまだ単純な世界なのだと…。 ただ、男の子の場合、ポケモンカードとか、遊戯王カードとか、ある種の世界のようなものに没頭するところがあったりして、あまりその世界と自分との関係などを深く考えないで楽しんでいる、というところはありますよね。

-癒しみたいなことを考えたとき、大人の男性と女性、というのでは、癒しはやっぱり女性なのでしょうか。

女の人っていうのは、心が満たされたいとか、心に穴が空いているとかっていうことを言って、具体的においしいお酒を飲めばいいとか、競馬で当たればいいとか、そういうのではなくて、そういう即物的なものではないんだ、と言うんですね。

-大人の男性がキャラクターを最近持ち始めている、というのが気になるところでして、実際に30〜40代の男性が昔に戻りたい、子どもの頃のヒーローと遊んだ自分に戻りたい、という気持ちをもっているということがありますけど…。

経済的にはゆとりも出てきているので、「ああこれが買えるようになったんだな、俺」という感慨のようなものがあるのですかね。ビックリマンチョコを一箱買ったりするケースもあるらしいですよね。つまらないものだけど、そういうものが買える、昔できなかったことができる自分っていいなあ、というのがあるのでしょうね。 それから、キャラクターの変化というのでしょうか、最近「かわいい」ものより「不気味」なものなどが出てきてますね。 そのほかで、私がいますごく興味があるのは、こういうキャラクター商品が受けるのは日本だけ、と言われていたのが、必ずしもそうではなくなってきていることですね。いまアメリカのものなどを見ていても、アメリカはロリータものなどの規制は厳しいのであまり露骨には出てこないのですが、いわゆるグラマーな女性でもない、少女っぽいものが出てきているみたいですね。

-いま「パワーパフガール」というのがアメリカでちょうど一番はやっている感じなのですが、それはもう日本にある「2頭身子どもキャラ」みたいなものですね。

日本の現状が広まっている、というところかもしれませんね。 アメリカはいま景気がいいわけで、退行しなければならない理由はないはずなのですが、ある種の(社会としての)無理みたいなものがどこかにあるのかもしれないですね…。

-アメリカの大人はキャラクターは持たない、と言われていたのですが、ポケモンも当たり、当社のデジモンとかガンダムもわりと大人にも受けてますので、アメリカはかなり日本的になってきているような感じですね。

映画などを見ていると、「大統領は強い父親」といった理想のようなものがあって、それはアメリカの象徴として絶対に手離すことはないと思うのですが、その裏のようなところで、かわいいものとか、キャラクターみたいなものが浸透しているのはすごく面白いですね。

-「アメリカンビューティー」などを見ていても、すごく遅れているな、と思いますね。キャラクターというのは、日本の場合、その裏に物語があって進化してきた、という側面があると思うのですが、それがなくなってきているのでしょうか?例えばキティなどがありますが。

先ほど言いましたように、自分以外の物語を見るという感覚がなくなってきて、あくまでも自分中心の物語があって、キャラクターは都合いいようにその中に登場しては、あるときは励ましてくれたり、あるときはいいことを言ってくれたり、というのがあるのではないでしょうか。