
キャラ研発信
コラム「キャラ化するニッポン」第7回『ネット社会を生きる以上、ぼくらは「キャラ」でしかありえない。』
かつて大人たちは、子どもがゲームやテレビアニメに熱中しているのを見ると、「現実とヴァーチャルの区別のつかない人間になってしまう」と心配した。
そして、彼らが時に信じがたい、残忍な犯罪などを起こすと、「ゲームやアニメの世界で簡単に人が死んでいくのを見てきたから、現実世界でもゲーム感覚で簡単に人を殺すようになったのだ」とマスコミは書きたてた。
しかし、当時そういった、いかにも短絡的で、ステレオタイプな論調を耳にするたびに、「いくらゲームやアニメ漬けの生活をしていたとしても、実際に現実とヴァーチャルの区別がつかなくなり、シューティングゲームで敵を殺すように、簡単に生身の人間を殺してしまうなんてことはあり得ない」と、多くの人は思っていたはずだ。
そういった論調は、実際、言っている側も子どもたちの射幸心を煽ろうとするアニメやゲーム業界に対する批判といった色合いが強く、本当のところ、論じていた側がどこまで信じていたのかも怪しい気がする。
それほどに、「現実世界」というものは確固たるものだと信じられていた。
しかし、どうやらそれは単なる「幻想」でしかないことが、しだいに明らかになりつつある。
日本人は、戦後一貫して、アニメ、ゲーム、キャラクターに囲まれる生活をしてきた。そして、キャラクターとの間にもはや抜き差しならないほど強い精神的な絆を結んでいる。その中で、「キャラ的リアル」の感覚は常に、ぼくらと寄り添い、身体化し続けているのだ。
キャラクターだけでなく、高度情報化の包囲網もぼくらから「現実世界」との接触を奪いつつある。
1990年代以降のインターネット、携帯電話の急速な普及は、高度情報化社会を一気に生活レベルにまで浸透させた。今では、多くのビジネスマンは日々パソコンの前で生活し、他の多くの人たちも携帯電話から目が話せない生活を送っている。実際、電車に乗ると、半数以上の人が携帯電話の画面を覗き込み、メールかゲームに興じている。これは、もはや当たり前になってしまった日常風景なのだが、少し引いて見てみると、ある種異様な光景でもある。彼らは、本当に現実世界を生きているのだろうか。かりそめの身体はそこにあったとしても、存在そのものはすでに仮想現実社会で暮らしているのではないか。そう感じるのは、ぼくだけではないと思う。
また、こういった情報化社会の中で、ぼくらは現実世界のほとんどに「情報」あるいは「データ」として接触するようになった。現実世界は何者かによって恣意的に編集され、集約され、それをぼくらも恣意的に選択するのだ。
言うまでもなく、ぼくらの現実認識は情報によってしかなされなくなってしまったのだ。ぼくらが「自然主義的リアル」だと思いこんでいる多くの「現実」も、実際のところ自然主義的かどうかは怪しくなっているのである。
日常的なコミュニケーションの多くも、今では対面ではなく、メールや電話で行うことが当たり前になっている。実際には一度も会うことなく、メールだけでことが済んでしまう相手だってめずらしくなくなってきている。
いやむしろ、メール中心の、仮想現実的なコミュニケーションに慣れてしまうと、実際に対面する、自然主義的なコミュニケーションが億劫になったり、不快になったりするといった経験をした人も少なくないはずだ。
メールが中心となるコミュニケーションの相手は、もちろん現実の存在ではなく、情報としての対象である。つまり、おもしろいことに、ぼくらは現実の存在(対面する相手)よりも情報としての対象(メールでの相手)のほうに親近感を持ったり、愛着を覚えたりしているということなのだ。
*仮想現実を生きる以上、ぼくらは「キャラ」でしかありえない。
9.11の事件が起きたとき、テレビのキャスターは「これは現実です」と叫んだが、テレビモニターを通じてしかあの事件に接することのできなかったぼくらにとって、9.11は、もはや生身の「現実」ではなく、情報の断片としての「仮想現実」でしかなかったことは言うまでもない。
ぼくらは日々の生活の中で、情報化された現実世界と向き合っている。テレビやパソコンのモニターを通じて、事件や事故が起き、携帯やパソコンを通じて、情報としての友達とコミュニケーションを取る。これが、至極当たり前の現代人の生活なのだ。
精神科医の香山リカは「多重化するリアル」という本の中で、現実感覚の希薄さから離人症や解離性障害を持つ若者が増えていると指摘している。実際に病名をつけられるかどうかはともかくとして、多くの日本人たちに、こういった現実との乖離、「自然主義的なリアル」に対する違和感、仮想現実を現実と感じる感覚が広がっていたとしても、それはむしろ当然と言わざるを得ないのかも知れない。
情報化社会の進展とは多かれ少なかれ、そういった感覚を準備するものなのだ。
そして、ぼくらが日々仮想現実空間で生きているのだとすれば、ぼくらの存在は、否応なく「キャラ」でしかありえないはずなのである。
なぜなら、インターネット社会とはそもそもキャラ社会なのだ。
アバターはもちろんだが、アバターを使わなくても、ブログやチャット、掲示板やメールなどインターネット上のコミュニケーションに関わるとき、そこにあるのは「自然主義的な私」とは別の人格、いわば「仮想現実空間上の私=キャラ」なのである。
ネット上のオカマである「ネカマ」のように、わざわざ意図的に別人格を用意しなくても、ネットや携帯電話でブログやメールを書くとき、そこにいる「私」は「現実の私」とは否応なく別のものにならざるを得ず、まさにパソコンや携帯電話上にだけ存在する「キャラとしての私」なのである。
ミクシーなどのSNSや通常のメール、情報収集、通販、オークションなど、ぼくらは日常生活の多くの時間をネット=仮想空間上で過ごしている。
たとえば、1日中ミクシーでマイミクたちとのやりとりを繰り返していれば、そこにいる「私」はおのずと「キャラとしての私」としてのみ存在することになる。パソコンの前にいる「私=アイデンティティ」は、やがてパソコンの中にいる「私=キャラ」へと飲み込まれていくのである。
その生活が長く続けば、ふたつの「私」のヒエラルキーは逆転し、やがて「自然主義的な私」よりも「キャラとしての私」のほうに親近感を覚え、それにアイデンティティさえ感じるようになったとしても不思議ではない。SNSやブログ上での自らのアバターへの愛情の深さや感情移入は、そういったことの表れだと言ってもいいのである。
今、SNSを愛好する人たちに「本当の自分はどっちですか」と質問したら、多くの人は「キャラとしての私」と答えるのではないだろうか。ぼくにはそう思える。
冒頭で述べた、かつて牧歌的に語られた現実と仮想現実の倒錯、そして「私のキャラ化」が、気がつくと、今では既に日常化してしまっていたのである。
そして、それは、常軌を逸した犯罪やそれを準備する病理といった、極めて特殊な形で突出するのではなく、むしろ、仮想現実への親和性という形で、ごくごく日常的な生活の様々な局面、身体そのものの感覚やプライベートなコミュニケーション、さらには政治や経済、教育といった社会のシステムそのもののあり様の中に、抜き差しがたく影響を与えているようなのである。
それが、「キャラ化するニッポン」の実態なのだ。
2007年7月4日 相原博之