キャラ研発信

コラム「キャラ化するニッポン」第6回『リア・ディゾンと「くどうさん」』

「生身」のリア・ディゾンが日本の芸能界にやってきてから、どのくらいが経つだろう。
テレビや雑誌に顔を出し、CDデビューし、公式サイトにブログを書き・・・
いわゆる通常のアイドルとしての活動を続けている。
もちろん、彼女を事実上発掘し、ここまで育てた多くのオタクたちにとっては、うれしい限りだろう。
しかし、実のところ、どうもぼくには今日本で活動する「生身」のリア・ディゾンが、あのリア・ディゾンだとは思えない不思議な感覚がまとわりついている。
アニメからそのまま抜け出てきたような顔を持つリア・ディゾンの出現は、「自然主義的リアル」を捨て「アニメ・マンガ的リアル」を生きようとするぼくらにとって、まさに革命的な出来事だった。それは、ぼくらが長年待ち望んだ「アニメ・マンガ的リアル」による「自然主義的リアル」への侵食の始まりをも意味していた。
どうころんでも「自然主義的リアル」でしかない自らのむごたらしい身体を、コスプレやプチ整形やボディピアッシングという古めかしい方法でしか「アニメ・マンガ的リアル」へと転換できなかったぼくらにとって、生身の身体が「現実」に「アニメ・マンガ的リアル」として存在する、言いかえれば、高度に「キャラ化した身体」を持つリア・ディゾンの登場は、ポストモダンのその先を告げるものだったのである。
そうであるからよけいに、リア・ディゾンには日本に来ても、そのまま「アニメ・マンガ的リアル」な人生を生きてほしいとぼくらは思ってしまうのだが、それは夢想が過ぎるというものか。
戦闘美少女として、桜坂洋の「ALL YOU NEED IS KILL」よろしく、今日も152回目の戦闘に出ては152回目の戦死を繰り返す、そんなワクワクするような生き方をまっとうしてほしいと望むのは、ぼくらのわがままが過ぎるというものか。
そんなアホらしいことを考えていた折、偶然、現実のリア・ディゾンよりもはるかにリア・ディゾンな女の子と遭遇することになった。
彼女は、ぼくの事務所の近くのコンビニでバイトをしていていた。
顔や背丈、髪の色の至るまで、彼女はまさにリア・ディゾンそのものとして、神々しくそこに立っていた。
しかし、よく見ると、彼女は胸に「くどう」というネームプレートをつけ、甲高いが、流暢な日本語で「いらっしゃいませ」とか「お弁当、あたためますか」とか、やっている。時々は、床にかがみこんで、雑巾で床磨きさえしているのだ。
彼女はもちろん、どこをどう探ってもリア・ディゾンではなくて、「くどうさん」なのだ。
(もしかして、事務所が芸能人修行と日本文化の勉強のために、こっそりコンビニでバイトをやらせているという深読みもできなくはないが)
しかし、ぼくにとっては、現実のアイドルのリア・ディゾンよりも、コンビニでバイト中の「くどうさん」のほうが、はるかにリア・ディゾンなのだ。
なぜなら、「くどうさん」はどう見ても、昼はコンビニのバイト、夜は美少女戦闘員に違いないからだ。コンビニのバイトという昼の姿も、「くどう」といういかにも、な名前も、もうまるで、そうとしか思えない。
それが「証拠」に、彼女は夜に行くと、必ずいないのだ。
それは、ともかく。
リア・ディゾンは、言うまでもなく「キャラ」だ。
キャラである以上、伊藤剛が「テヅカ・イズ・デッド」で定義をしたように、生身のリア・ディゾンというコンテンツから軽やかに遊離し、本来の「リア・ディゾン」へと立ち戻ることが可能なのだ。さらに言えば、リア・ディゾンというキャラは、そもそもオタクたちによって作り出された「ノンリアルなリアル」なのであり、偶然、実際に存在していた生身のリア・ディゾンとは明らかに別物ものなのだ。
謎の戦闘美少女「くどうさん」のほうがリア・ディゾンよりもはるかにリア・ディゾンだとしても、だから、それは特に不思議なことではない。
我々は現実社会を認知しているようで、実は自己の中に生成した「仮想現実」を認知している。リア・ディゾンは現存するが、それはぼくらが認知しているリア・ディゾンとは似て非なるものだ。
やれやれ、生きていくのは案外むずかしい。

2007年4月26日 相原博之