
キャラ研発信
コラム「キャラ化するニッポン」第4回『フラット化とキャラ化』
年末から新年にかけてバラバラ殺人事件が相次いでいる。
事件の内容を見る限り、特にそこに同時代的意識のようなものを見出せる感じはしないが、そうは言っても、そこにはやはり、うっすらと、身体感覚の変化というものがないとは言えないのかもしれない。
かつて、「社会のデジタル化によって人間はリアルな身体感覚を失い、簡単に人を殺したりしてしまうようになりつつある」とステレオタイプな論評が流行ったが、それが現実化しつつあるのかもしれない。
この身体感覚の変化は、最近の経済界のキーワードである「フラット化」と関連づけて考えるとおもしろい。昨年トーマス・フリードマンの「フラット化する世界」が翻訳出版され、話題になった。内容は言うまでもなく、グローバリゼーションの進行により、先進国とインドや中国などの後進国との差は急速に平準化されつつあるというものだが、この「フラット化」は何も経済のグローバル化だけに限ったことではない。たとえば会社と家庭、公と私、男性と女性というように、かつては厳然とヒエラルキーが存在していた価値観や概念もフラット化=等価になりつつあるのだ。最近流行のワークライフバランスという言葉は会社(公)と家庭(私的生活)とのフラット化と言い換えてもいい。
あらゆるものがフラット化、等価になるという概念は極めてWEB2.0的だとも言える。
そもそもインターネット自体が中心と周縁というそれまでのメディアの概念に対しては極めてフラット型のメディアだし、ロングテールという思想もそうだ。HPからブログへという流れもインターネット内にそうは言っても存在していた特権性を排除するフラット化の流れだ。
このフラット化の流れが身体感覚にも及んだということなのではないだろうか。
身体もかつては極めて特権的なものとしてコード化されてきた。人間の身体に手を加えることは忌避されるべきことだったのだ。しかし、ボデイピアスやタトウといったわかりやすいものだけでなく、プチ整形、ダイエット、さらには下流的生活によって醜く肉体がゆがむメタボリックなども含めて、身体の持つ特権的な価値は喪失し、モノと等価になりつつあるのだ。
もちろんこれを身体のフィギュア化という安易な意味でキャラ化と呼んでもいいだろう。フラット化ということで言えば、言うまでもなく村上隆がかつて唱えた「スーパーフラット論」との関連について触れることももちろんできる。
「スーパーフラット」とは村上的に言えば浮世絵に代表される日本の平面的、二次元的世界に芸術性を見出す美意識を現代のセル画に代表されるアニメ、キャラクターの平面世界とを連関させる考え方であり、東浩紀がそれをデータベース型消費性向へと発展させてもいる。
遠近法という近代絵画が獲得した表面的リアルへの特効薬をあえて捨てることで、深層のリアルへと手を伸ばそうとする「スーパーフラット」は、村上のアート世界での戦略とは別次元で社会へと急速に浸透しているというのが、ぼくの印象だ。
前に書いた「エビちゃん」などは、まさにスーパーフラットの傑作だろうし、社会が特権性という奥行きを失い、等価化していく流れも、まさにスーパーフラット化と呼ぶべきものだ。
身体感覚の変化については、前回書いたWiiのあり様も興味深いが、それはまたどこかで書こう。
2007年3月13日 相原博之