キャラ研発信

コラム「キャラ化するニッポン」第3回『任天堂Wii…リアルとノンリアルの革命』

任天堂のWiiが大人気だ。
テレビでも、コントローラーをラケットがわりにしてテニスに興じるCMをよく見かける。
このWiiは、まさに革命的なゲームだと言っていい。
そもそもゲームは、リアルでは実現不可能な状況をゲーム空間の中で擬似体験するものだ。絶対に入ることができないはずのガンダムのコックピットに、実際に入ってゲームが楽しめるといったものが典型だ。
しかし、Wiiは違う。Wiiは実際にラケットを握ってコートに立てばできてしまうリアルを、わざわざ室内で、コントローラーを握って画面に向かうという倒錯的な環境を提供することによって遊ぶゲームなのだ。
つまりは、リアルに立ち入ることが容易なものを、わざわざノンリアルの境界に留まらせることで成立させている「ゲーム」なのである。
ここにも、ぼくはノンリアルのリアルに対する勝利を見る。
端的に言えば、リアルのテニスよりもノンリアルとリアルが倒錯したWii空間のほうが、現代人にとっては、はるかにおもしろいのだ。
つまり非演技的で、存在感が希薄、ある種の匿名性さえ持つ彼らがコントローラーをラケットがわりにしてテニスに興じる女の子を見るたびに、ぼくは、彼女が、まさに「キャラ化」していると感じてしまう。
生身のリアルな肉体のまま、コントローラーを無意味に振り回すという、その所作には、もはやゲーム空間とリアル空間のどちらにも属さない、「キャラ化」した身体が立ち上がってくるのである。
かつて、中沢新一は「ポケットの中の野生」で、精神分析学で言う「対象a」について語っている。
中沢によれば、「対象aとは、意識のへりの部分にさまざまなかたちをとってあらわれてくる、なんとも名付けがたい対象のことを指している。それは、対象としてのしっかりしたまとまりも持っていないし、あやふやで壊れやすいところがあり、しかし意識によっては完全にはコントロールしがたいものなので、それがどんな内容や力を備えているのか最後までわからないといった、奇妙な代物なのである。」(「ポケットの中の野生」)
この「対象a」は、たとえばドットで作られたキャラクターが、「何かである」と「何ものでもない」の境にあるような存在であることを説明するために提示されているのだが、この「対象a」と、ぼくがここで述べている「キャラ化」には、とても近いものがあるように思える。
ただのドットというノンリアル、あるいは非言語的な境界からリアル、あるいは言語的なキャラクターが立ち表れる。その立ち表れ方そのものが、ゲームの魅力の源泉だと中沢は指摘している。ぼくが「キャラ化」という言葉にこだわるのも、同じ意味合いなのだ。つまり、大事なのは「キャラ」なのではなく、「化」のほうなのだ。「キャラ化」は存在ではなく、現象だと言ったほうがより正確かもしれない。
バーチャルにできあがったゲーム空間から、不恰好でとりとめもないリアル空間へと立ち戻る、その境界が「キャラ化」という現象なのだ。
昨今のゲーム空間に見られる、あまりの完成度の高さは、それ自体を擬似リアル化してしまっている。それはキャラクターそのものにも言えることだ。
ゲームやキャラクターのバーチャル空間が一般化、あるいは「リアル化」し、本来持っていた可能性を失いつつある一方で、不格好でとりとめのない「リアル空間」にかえって、本来的な魅力が宿りつつあるのかも知れない。
キャラ化のベクトルがリアルからノンリアルへと向かうのではなく、逆にノンリアルからリアルへと向かうことからも、そのことはわかる。
少なくとも、ゲームという閉塞的な擬似リアル空間からのあくなき逃走という営みに「キャラ化」の本質を見ることもできそうだ。Wii の登場は、そのことを見事に暗示してくれている。
2007年1月12日 相原博之