キャラ研発信

コラム「キャラ化するニッポン」第9回『RPC(ロール・プレイング・コミュニケーション)の可能性』

ここに新しい原稿を書くのは久しぶりだ。


9月に講談社現代新書から「キャラ化するニッポン」を刊行したこともあり、読売新聞、東京新聞、北海道新聞などから寄稿や取材を頼まれ、また様々な人たちと「キャラ化」について話し合う機会を持った。「キャラ化」というテーマに対する関心の高さには正直驚かされた。ぼく自身の中でも、「キャラ化」に対する捉え方は様々に広がりを見たように思う。 再び、このHPでの不定期連載を継続していきたい。


今回は、新書でも書いた「仮想空間に対する親和性」についてだ。
ネットや携帯の利用が恒常化することで、「生身の私」ではなく「キャラとしての私」として生きることが当たり前になり、そこに心地よさやリアリティさえ感じてしまうという話だ。
これは、たぶんに概念的な話でもある。
そこで、たとえばゲームについて考えてみよう。
我が家では8歳になる娘と任天堂DSで「ポケットモンスターダイヤモンド・パール」をやっている。母親が決めたルールで週末しかゲームができないため、平日は攻略本などを読みながら、土日に向けて作戦を練る。そして土日には集中してチャンピョンリーグを目指すというわけだ。
こんな生活をしていると、だんだん不思議な感覚に襲われてくる。
つまり、生きているのは土日だけで、平日はじっと身を潜めて眠っているような、そんな感覚だ。もちろん、現実には平日はバリバリと仕事をしているわけだが、どこかぼくの頭の片隅に、薄暗い穴倉にこもって眠っているイメージが付きまとっているのである。
言うまでもなく、平日の「生身の私」は生きているという実感に乏しく、土日、シンオウ地方を旅する「ひろゆき」という「私=キャラ」こそが本来的な自己という感覚なのである。これは、RPGの多くがもたらす感覚とも言える。
ゲームを終えた後にぐったりするのは、ゲームに集中した疲労感はもちろんだが、魅力的なゲーム的リアルから離れ、退屈な日常が全面に広がったことへの失望感も強いと考えられる。
そのくらい、ぼくらはゲーム的、アニメ的世界で生きることを熱望しているようなのである。もし、今「日常世界と大好きなアニメの世界とどちらで暮らしたいですか」というアンケートを取れば、少なくとも若者の多くは後者と答えるだろう。もはや、それは自明のことなのかも知れない。
本の中で「セカンドライフ」にも触れた。「セカンドライフ」が日本でどのように評価されるかは未知数だが、ぼくは「セカンドライフ」には1つ重要な弱点があると考えている。「セカンドライフ」は仮想空間上に現実世界に極めて近い世界を作り上げたものだ。人々は、仮想空間にいながら現実世界と同じ感覚で生活できるというのが最大の特徴だ。ここには、「現実空間=リアル」という古くさい前提がある。「仮想空間上に現実の世界があったらどんなにいいだろう」という願いに応えた画期的なサービスというわけだ。
しかし、ぼくらの多くは既に「現実空間」を見限ってしまっている。退屈な現実空間などではなく、自由で可能性に満ちたアニメ・ゲーム的仮想空間でこそ生きたいと熱望しているのである。
RPGが「アニメ・ゲーム的世界で生きる」ことの楽しさを体験させてくれるものなのであるならば、たとえばメールやブログなどのコミュニケーションは、いわば「RPC」(ロール・プレイング・コミュニケーション)とでも呼ぶべき楽しさをぼくらに感じさせてくれているのかも知れない。
そう考えると、RPGほど非現実ではなく、「セカンドライフ」ほど現実的でもない、そんなアニメ・ゲーム的擬似仮想空間をこそぼくらは求めているような気がしてならない。
新井素子が「ルパン3世のような小説を書きたい」と言った気持ちは、ぼくには痛いほどよくわかる。今の現実世界とルパンの世界とどちらで生きたいかと問われれば、それは間違いなくルパンの世界なのだから。
それほどのエンタテインメント性も持たずにロングヒットとなった「どうぶつの森」のありように、もしかしたらそのヒントが見つかるかのもしれない。


2007年10月19日 相原博之